<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<feed version="0.3" xml:lang="ja" xmlns="http://purl.org/atom/ns#" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"><title>「H&amp;amp;A Coins」ローマブログ</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.ha-coins.shop-pro.jp/" /><modified>2010-03-04T23:00:54+09:00</modified><tagline>古代ローマ帝国の歴史と古代コインの魅力に迫る

ショップ更新情報：2010.1.1</tagline><generator url="http://jugem.cc/">JUGEM</generator><entry><title>ポンペイの住宅　「ファウヌスの家」</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.ha-coins.shop-pro.jp/?eid=677465" /><id>http://blog.ha-coins.shop-pro.jp/?eid=677465</id><issued>2010-03-03T12:41:25+09:00</issued><modified>2010-03-03T15:00:00Z</modified><created>2010-03-03T03:41:25Z</created><summary>今回は、ローマ遺跡で有名なポンペイに残る豪華な邸宅の一つ、「ファウヌスの家」を紹介します。
入口から入った所のトスカーナ式のアトリウムを望む

この邸宅はローマ人がポンペイを征服する前のサムニウム人が支配していた紀元前4〜3世紀頃に建築されたもので、イタリア的...</summary><author><name>ロマーヌス</name></author><dc:subject>ポンペイ遺跡</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[今回は、ローマ遺跡で有名なポンペイに残る豪華な邸宅の一つ、「ファウヌスの家」を紹介します。<br />
<img src="images/R0014349.JPG" width="392" height="261" alt="" class="pict" />入口から入った所のトスカーナ式のアトリウムを望む<br />
<br />
この邸宅はローマ人がポンペイを征服する前のサムニウム人が支配していた紀元前4〜3世紀頃に建築されたもので、イタリア的要素とヘレニズム的要素を併せ持っています。<br />
<br />
家の名の由来は写真にあるアトリウムに配置されたインプルヴィウム（雨水をためる設備）の飾りのファウヌス像（家畜や田畑を司る牧神）からきています。<br />
このブロンズ像は現在、オリジナルがナポリ国立考古学博物館に収蔵されており、ポンペイの家にはコピーが設置されています。<br />
オリジナルはアレキサンドリアで作られたもので、博物館の方でも実際に観ましたが、とても精巧で保存状態の良い素晴らしい像でした。<br />
<br />
<img src="images/RIMG0647.JPG" width="392" height="294" alt="" class="pict" />奥に見える四本の柱がある所が2つ目のアトリウム（テトラスティロと呼ばれる礼拝用のアトリウム）<br />
<br />
アトリウムの周りにも部屋があり、食堂やプライベートな部屋が配置されていました。<br />
<br />
このファウヌスの家は当時、社会的な地位の高い階級の人間が住んでいたものとされており、部屋数も10部屋以上あり、2つのアトリウム（大広間で主に人を招き入れる応接間のような役割を持つ。）と2つのペリスティリウム（列柱に囲われたプライベートな庭園）を持っています。<br />
ポンペイの他の住宅に比べると数倍も大きく、調度品やモザイクも細工が細かく豪華に飾られていました。<br />
現在はモザイクや調度品は上記の博物館に収蔵されてしまっているので、2か所を観ないと当時の様子が想像しづらいかもしれないです。<br />
<br />
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<img src="images/RIMG0656.JPG" width="392" height="294" alt="" class="pict" />ペリスティリウムと奥にエクセドラ<br />
<br />
2つあるペリスティリウムの手前のもので、奥のエクセドラは2つのペリスティリウムを区切っている空間となっています。このエクセドラには、教科書にも出てくるアレキサンドロス大王とペルシャ帝国のダレイオス3世との「イッソスの戦い」のモザイク画が床に描かれていました。<br />
<br />
<img src="images/RIMG1007.JPG" width="392" height="294" alt="" class="pict" />ナポリ国立考古学博物館所蔵のモザイク画<br />
<br />
左にアレキサンドロス大王、右にダレイオス3世が描かれており、躍動感あふれる戦いの様子は目を見張るものがあります。この作品は、古代における最も重要な作品の一つといえますが、それがこのポンペイの町にあるというのも不思議な感じがします。<br />
それだけポンペイの文化レベルが高かったともいえますし、火山灰に埋まって保存されたポンペイの町だからこそ残った芸術品なのかもしれません。<br />
<br />
<br />
<img src="images/RIMG0653.JPG" width="392" height="294" alt="" class="pict" />エクセドラの奥にある2つ目のペリスティリウム。<br />
<br />
ペリスティリウムとしても規模が大きく、ポンペイやエルコラーノで観た他の家にあったものの数倍はあります。<br />
ペリスティリウムはプライベートな空間であり、草木に囲まれた住人にとっての憩いの場所でした。<br />
スペインなどにあるパティオのような空間で、とても落ちつく感じがします。<br />
<br />
<br />
ポンペイにある家々は規模の大小がありますが、作りとしては同じようなものとなっていて、店舗、応接間、食堂、庭など機能によって分けられた空間を適所に配置してします。<br />
城壁に囲われた「都市」という限られた場所に建てるため、敷地を広くすることができないので、土地を効率良く使うために、このような建築様式となったのだと思われます。<br />
今回紹介した「ファウヌスの家」はポンペイ式の住宅のトップクラスの規模と豪華さを持つもので、裕福な古代ローマ人の暮らしとはこんなものだったのかと想像させてくれます。<br />
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]]></content></entry><entry><title>ヴェローナの城門　ボルサーリ門</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.ha-coins.shop-pro.jp/?eid=655663" /><id>http://blog.ha-coins.shop-pro.jp/?eid=655663</id><issued>2010-01-01T19:11:43+09:00</issued><modified>2010-03-03T15:00:00Z</modified><created>2010-01-01T10:11:43Z</created><summary>新年あけましておめでとうございます。本年も当ブログをよろしくお願い致します。

今回はローマ時代のヴェローナの正面玄関ともいえる城門だったボルサーリ門を紹介します。
ボルサーリ門の正面側

ボルサーリ門はヴェローナの残るローマ遺跡の一つで、ヴェローナの旧市街の中...</summary><author><name>ロマーヌス</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[新年あけましておめでとうございます。本年も当ブログをよろしくお願い致します。<br />
<br />
今回はローマ時代のヴェローナの正面玄関ともいえる城門だったボルサーリ門を紹介します。<br />
<img src="images/R0018771.JPG" width="261" height="392" alt="" class="pict" />ボルサーリ門の正面側<br />
<br />
ボルサーリ門はヴェローナの残るローマ遺跡の一つで、ヴェローナの旧市街の中心地に位置しています。時代的にはアレーナと同時期の紀元1世紀に建造されたものでした。その後、ガリエヌス帝の時代に改修がなされたことを刻印が示しています。<br />
ちなみにローマ時代の呼び名はロウィア門でした。<br />
この門はヴェローナの城門の中で最も重要な門で、都市の正面玄関ともいえるものでした。<br />
<br />
それにふさわしい威厳を持つように、下部は2つのアーチ門、全体的には3段構造になっています。上部には12個のアーチがあり、ローマ時代は3段目の真ん中に彫像が飾られていました。下部のアーチの両側にはコリント式の円柱が配置され、アーチの上には碑文と破風が取り付けられていて、堂々とした迫力を持つ門となっています。<br />
<br />
<br />
門がある通りは、「デクマヌス・マクシムス」と呼ばれるローマ都市に必ずある十字に走る通りの一つにあたります。（ちなみに十字の通りのもう一つはカルドと呼ばれます。）<br />
ヴェローナのデクマヌスはローマ街道の一つであるポストゥミウス街道上にあり、都市のメインストリートでした。門をくぐり、まっすぐ進むとローマ時代のフォロであったエルベ広場にたどり着きます。<br />
<br />
<img src="images/CIMG0333.JPG" width="397" height="298" alt="" class="pict" />ボルサーリ門正面側（遠景）<br />
<br />
写真はカヴール大通り側から撮ったもので、門をくぐった向こうはボルサーリ門大通りになります。<br />
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<img src="images/CIMG0344.JPG" width="397" height="298" alt="" class="pict" />門左上部にある碑文<br />
<br />
「CORONIA AVGVSTA VERONA・・」というはじまりの部分が、かろうじて読めるくらいです。時間がある時にもう少し解読してみたいと思います。<br />
碑文にある「コローニア・アウグスタ・ヴェローナ」とは、ヴェローナのローナ時代の名前にあたります。<br />
<br />
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<img src="images/CIMG0348.JPG" width="397" height="298" alt="" class="pict" />門の裏側<br />
<br />
裏側はシンプルで特に装飾もされていません。<br />
<br />
振り返ってみると、「ロミオとジュリエット」関連の名所と比べるとローマ遺跡を見ている人は少なめな感じです。特に、ジュリエッタの家などは人がひしめき合っていて、すごい人気です。<br />
<br />
ボルサーリ門は特に「地球の歩き方」などにも記事が載っていないので、素通りする人も多いかもしれませんね。<br />
<br />
<br />
デジカメの録画機能で動画を撮ったので紹介しておきます。申し訳ないくらい短いです。<br />
<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/372XW57Aulc&hl=ja_JP&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/372XW57Aulc&hl=ja_JP&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="400" height="319"></embed></object><br />
<br />
<br />
こうして街中に残り、今もなお使われているというローマ遺跡はやはりいいですね。<br />
廃墟にある遺跡は既に廃れた文明の遺物という雰囲気が色濃いですが、町中にある遺跡は町の風景と溶け込み、古い歴史を感じさせるモニュメントとして愛されている感じがします。<br />
<br />
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<br />
<br />
ＰＳ：今回は新年最初の更新ということで、今年の抱負を一つ。ローマ遺跡の中でも、個人的に門や橋というのは好きなので、今年も各地に残るローマ遺跡を一つでも多く見に行きたいと思います。<br />
次はドイツのトリーアのポルタ・ニゴラとか、スペインのメリダやタラゴナの水道橋もいいですね。<br />
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ピエトラ橋（Ponte Pietra)


ピエトラ橋は、紀元前1世紀に建設され、ヴェローナに現存する唯一の古代ローマ時代のアーチを今に残す橋となっています。
ローマ時代の名は、マルモレウス橋（Pons Marmo...</summary><author><name>ロマーヌス</name></author><dc:subject>ローマ遺跡</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[今回は、ヴェローナに流れるアディジェ川に架かるピエトラ橋を紹介します。<br />
<img src="images/CIMG0436.JPG" width="397" height="298" alt="" class="pict" />ピエトラ橋（Ponte Pietra)<br />
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<br />
ピエトラ橋は、紀元前1世紀に建設され、ヴェローナに現存する唯一の古代ローマ時代のアーチを今に残す橋となっています。<br />
ローマ時代の名は、マルモレウス橋（Pons Marmoreus）でした。<br />
現在はイタリア語で「石」を意味する「ピエトラ」の名がついて、ピエトラ橋（石橋）となっています。<br />
<br />
<br />
ローマ時代は、この橋の右側（旧市街から見て）にはもう一つポストゥミウス橋という橋が架けられていて、市の中心とローマ劇場とを結んでいました。今はもう現存しない橋ですが、この橋は、紀元前148年に執政官を務めたスプリウス・ポストゥミウス・アルビヌス・マーニュスが建設させた「ポストゥミウス街道」に架けられているので、その名がつけられました。<br />
<br />
ちなみにこのポストゥミウス街道は、ゲヌア（現ジェノバ）からプラセンティア（現ピアチェンツァ）、クレモナ、ヴェローナ、アクィレイアに向かうものでした。<br />
<br />
<br />
<img src="images/CIMG0426.JPG" width="264" height="352" alt="" class="pict" />橋の旧市街側にある見張り台<br />
<br />
ヴェローナは蛇行する川の間に建設された都市なので、通常の城壁に加えて川が自然の城壁となっています。この塔は恐らく中世以降に作られたものですが、外敵の侵入に対し、重要度は高かったと推測されます。<br />
<br />
<br />
<img src="images/Scan0023.jpg" width="385" height="251" alt="" class="pict" />お土産物の古代ローマ時代の想像図<br />
<br />
これを見ると左側にみえるボルサーリ門から続く道が、「ポストゥミウス街道」で、フォロ（現エルベ広場）を通り、今はないポストゥミウス橋を渡ると劇場に至ることがわかります。劇場手前の2本の橋の左側が今回紹介しているピエトラ橋です。<br />
<br />
<br />
<img src="images/CIMG0422.JPG" width="397" height="298" alt="" class="pict" />橋の上の様子<br />
<br />
橋の中心が高くなっていて、ゆるやかな太鼓橋のような形状をしています。<br />
<br />
<br />
今回の旅行では、デジカメの動画機能を使っていくつか動画を撮ってみたので、紹介しておきます。<br />
「ピエトラ橋の上の風景」<br />
<object width="400" height="319"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/bmu4vJsHWsI&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/bmu4vJsHWsI&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="400" height="319"></embed></object><br />
<br />
歩きながら撮っているのとビデオカメラではないので、ブレがありますが、写真よりもやはり周囲の様子がわかりやすいので、遺跡に行った時はこれからも撮ってみたいと思います。<br />
<br />
<br />
<img src="images/CIMG0417.JPG" width="384" height="288" alt="" class="pict" />サン・ピエトロの丘。<br />
<br />
川を渡るとすぐにこの丘があります。下にテアトロ・ロマーノ（ローマ劇場）と上にサン・ピエトロ城があり、上の土産物の絵（古代ローマ時代の想像図）と見た目は同じ印象です。<br />
次の機会には、ローマ劇場も紹介したいと思います。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
ＰＳ：ヴェローナは観光都市としては、イタリアで5本の指に入るそうで、海外ではフィレンツェよりも人気が高いそうです。<br />
実際、歩いてみても10月末でしたが観光客も多く、人気ぶりが実感できました。でも日本人観光客は少ない印象でした。日本ではローマ、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェの方が人気があるからでしょうか？<br />
私としては、ロミオとジュリエットの舞台としての中世都市的なロマンチックな雰囲気と古代ローマ都市としての歴史が混ざり合い、とても魅力的な町なので、かなりおすすめです。<br />
<br />
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<div align="center"><a href="http://history.blogmura.com/in/072991.html"><img src="http://history.blogmura.com/img/history80_15_2.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a></div><br />
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]]></content></entry><entry><title>ヴェローナのローマ遺跡　レオーニ門</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.ha-coins.shop-pro.jp/?eid=637092" /><id>http://blog.ha-coins.shop-pro.jp/?eid=637092</id><issued>2009-11-13T12:59:26+09:00</issued><modified>2010-03-03T15:00:00Z</modified><created>2009-11-13T03:59:26Z</created><summary>先日、イタリアを旅してきましたので、今回はヴェローナのローマ遺跡を紹介したいと思います。
今回、訪れたヴェローナは北イタリアのミラノとヴェネツィアのちょうど中間に位置しています。今もなお、ローマ時代の円形闘技場、劇場、フォロ、橋、城門などが状態良く保存さ...</summary><author><name>ロマーヌス</name></author><dc:subject>ローマ遺跡</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[先日、イタリアを旅してきましたので、今回はヴェローナのローマ遺跡を紹介したいと思います。<br />
今回、訪れたヴェローナは北イタリアのミラノとヴェネツィアのちょうど中間に位置しています。今もなお、ローマ時代の円形闘技場、劇場、フォロ、橋、城門などが状態良く保存されており、典型的なローマ都市としての都市形態を保っています。<br />
<img src="images/CIMG0373.JPG" width="288" height="384" alt="" class="pict" />レオーニ門（Porta Leoni)<br />
<br />
ヴェローナは紀元前300年頃にはローマの勢力圏となり、紀元前８９年に植民市となります。その後、前49年にムニキピウム（自治都市）となり、1世紀頃には円形闘技場や劇場など主要施設が建設されるようになりました。<br />
<br />
このレオーニ門はエルベ広場（古代のフォロ）を中心として、町を十字に走る通りの先に位置する市門の一つで、もう一つの市門のボルサーリ門と並んで重要な門の一つでした。<br />
門の形状は、2つの門が並んだ作りで、付属して中庭のように中心が空いた四角い建物と2つの塔がついていました。<br />
<br />
<img src="images/CIMG0374.JPG" width="384" height="288" alt="" class="pict" />当時の門の形状の図<br />
<br />
<br />
現在は2つ繋がっていた門の片方部分のみが残っているので、少し存在感が無くなっているかもしれませんが、近くでみるとやはり歴史の深さを感じる重厚な雰囲気を感じ取ることができます。<br />
<img src="images/CIMG0379.JPG" width="384" height="288" alt="" class="pict" /><br />
<br />
残っている碑文には「・・TI FLAVIVS PF NORICVS IIII VIRI・・」と読み取れるのでヴェスパシアヌス帝かティトゥス帝の時代のものと分かります。<br />
<br />
<br />
<img src="images/CIMG0386.JPG" width="346" height="259" alt="" class="pict" />門の横は当時の遺跡が保存されており、覗けるようになっています。<br />
こういう風に保存してあると、近くまで行ってみることができるからいいですね。<br />
<br />
<br />
<img src="images/CIMG0387.JPG" width="320" height="240" alt="" class="pict" />塔のあった部分<br />
<br />
最初は見たときに、この円形は何かわからなかったのですが、よくよく門のところにあったプレートをみて塔の跡だとわかりました。<br />
<br />
<br />
この城門から伸びる通りをまっすぐに進むと中心となるフォロ（現在はエルベ広場）に行き着きます。<br />
まさにローマ時代と変わらぬ道筋が残り、門の位置から城壁が築かれていた場所もわかるので、ローマ時代の町の大きさも実感することができます。<br />
<br />
<br />
また別の記事で、もう一つの市門のボルサーリ門や円形闘技場、劇場などのローマ遺跡を紹介していきたいと思います。<br />
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現在、上野の西洋美術館では開館50周年記念事業として、「古代ローマ帝国の遺産」展を開催中（2009年9月19日〜12月13日）です。


「栄光の都ローマと悲劇の町ポンペイ」というサブタイトルがついており、帝国の富の象徴である「栄光の都ロ...</summary><author><name>ロマーヌス</name></author><dc:subject>ミュージアム</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[久しぶりにミュージアムの話です。<br />
現在、上野の西洋美術館では開館50周年記念事業として、「古代ローマ帝国の遺産」展を開催中（2009年9月19日〜12月13日）です。<br />
<img src="images/Scan0021.jpg" width="170" height="234" alt="" class="pict" /><br />
<br />
「栄光の都ローマと悲劇の町ポンペイ」というサブタイトルがついており、帝国の富の象徴である「栄光の都ローマ」とヴェスヴィオ火山の噴火で埋もれた「悲劇の町ポンペイ」に焦点を当てています。<br />
彫像、フレスコ画、宝飾品、コイン、調度品などが展示されており、特にポンペイ関連の展示物が充実しています。<br />
<br />
<br />
内容ですが、<br />
第1章　帝国の誕生<br />
第2章　アウグストゥスの帝国とその機構<br />
第3章　帝国の富<br />
という構成になっています。<br />
<br />
第1章　帝国の誕生では、皇帝像を展示していて、オクタヴィアヌスタイプのアウグストゥス像から展示が始まります。<br />
オクタヴィアヌスタイプのものは、ヘレニズム君主的な様式で作られているのですが、帝政移行後のアウグストゥス像はギリシャのクラシック様式へと変化しています。<br />
「王」ではなく「プリンケプス＝第一人者」であることを強調したかったアウグストゥスは、その意思を伝える意味で肖像に気を配っていたことが窺えます。<br />
<br />
この展示室では、他にはドミティアヌス帝やアグリッパ、ガイウス・カエサル、ティベリウス帝などの像、一際大きい皇帝坐像が展示されていました。皇帝坐像はエルコラーノで発掘されたもので、ユピテル神の姿をした皇帝像（アウグストゥス）となっています。<br />
いわゆる普通のアウグストゥス像とは顔立ちが違いますが、皇帝崇拝用に象徴としての皇帝（アウグストゥス）を形取っています。<br />
<br />
<br />
第2章では、特別出品として「アレッツォのミネルヴァ」が展示されていますが、これはかなり貴重な像で、紀元前3世紀頃に作成されたものでした。<br />
コリント式兜をかぶったミネルヴァ（アテナ）のブロンズ像で、紀元前4世紀頃のギリシャ彫刻を古代ローマ時代のローマ人がコピーしたものとなっています。こうしたギリシャ彫刻はオリジナルが既に失われているので、ローマ時代のコピーはギリシャ文化を知る上でもとても貴重なものとなっています。<br />
<br />
第3章では帝国の富を象徴するものとして、金貨が展示されています。ポンペイの居酒屋で発掘された13枚ものアウレウス金貨が並び壮観です。<br />
1アウレウスは25デナリウス銀貨、100セステルティウス銅貨の価値をもっていました。<br />
軍団兵のおおよその年間給与はカエサル時代は225デナリウス、ドミティアヌス帝時代には300デナリウスほどであったようです。<br />
<br />
展示されている金貨は若干黒ずんでいるいるものもありますが、ほとんどはきれいな状態で、まさに博物館級のものばかりで、一見の価値ありかと思います。カタログを買うと詳しく書いてあるので、おすすめです。<br />
<br />
この展示室には他には輝くばかりの金細工の宝飾品も並んでいるので、女性の方には特に興味深いかと思います。<br />
<br />
ちょっと面白い展示物としては、「砦形のサモワール」というものがありました。ポンペイから出土したもので、簡単にいえば火鉢の仲間で、中に液体をいれて液体を温めることもできる暖房器具でした。液体を出すための蛇口もついていて、暖めたお湯を飲み物などに使っていたのでしょうか。<br />
他には装飾が素晴らしいスフィンクスの鼎やランプ台などがありました。<br />
<br />
このブログでもローマ水道を話題に扱うことがありますが、展示物の中には水道の弁やフィルターもありました。ブロンズと鉛製で古代のものとは思えないほど工夫されたもので感心せずにはいられません。<br />
ポンペイに行くと実際に水道関連の遺跡を見ることができますが、現地ではなかなか見逃しがちなところでもあるので、なかなか興味深かったです。<br />
<br />
<br />
今回の展示で最も目をひく展示物としては、ポンペイの「黄金の腕輪の家」のフレスコ壁画とモザイクの噴水でした。<br />
フレスコ壁画のテーマは「庭園の風景」で、緑があふれ、花々が咲き、鳥が羽ばたく、青空の風景が広がっています。咲いている薔薇や描かれている鳥もかなり写実的で、色使いもきれいな、なんとなくほのぼのする絵でした。<br />
<br />
展示の最後に映像ブースがあり、そこで、この黄金の腕輪の家の当時の様子を再現するＣＧ映像が流されていますが、これはかなり必見です。<br />
きれいに手入れされた庭と庭に面してモザイクの噴水のある食堂、庭園の風景の描かれたくつろぎの部屋、まさに楽園のような映像です。<br />
これを見て初めて当時の富裕なローマ人の生活を映像として体感できた感じがします。<br />
実際にポンペイに行って、いろいろな住宅をみてまわったことがありますが、壁画などはほとんど剥がされ、置いてあった調度品は博物館にいってしまっているので、当時の様子を完全に知るということは難しい感じがします。今回の企画展は、映像でそれを復元するということがされているので、かなり参考になりました。<br />
<br />
<br />
<br />
今回の企画展では、「ソンマ・ヴェスヴィアーナ」の発掘調査に関する展示もあり、パンフレットにもある「豹を抱くディオニソス」が展示されています。一見すると女性のようにもみえる美しい像で、キズタの冠と山羊皮のマントと葡萄、抱いた豹がディオニソス像であることを示しています。<br />
2003年から2004年の東京大学の発掘チームによる発掘物とそれまでに発掘されていた部分とを接合し、このような美しい像が復元されたとのことです。これが土からでてきたら、さぞかし鳥肌が立つような感動をしそうです。<br />
<br />
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<br />
今回の展示物のほとんどはナポリ国立考古学博物館からの出品が多いのですが、現地では見られなかった展示物も多く興味深い企画展でした。<br />
<br />
<br />
<br />
※ナポリ国立考古学博物館の写真があったので紹介しておきたいと思います。今度、記事にもしていきたいと思います。<br />
<br />
<img src="images/RIMG0945.JPG" width="326" height="245" alt="" class="pict" />ナポリ国立考古学博物館<br />
<br />
博物館前が大きい通りなので、近づきすぎの写真になってしまいました。ヨーロッパの一流のミュージアムはどこもこのように、重厚な趣のある外観で、内容も見ごたえ十分です。<br />
<br />
<img src="images/RIMG0955.JPG" width="245" height="326" alt="" class="pict" />博物館の中の様子<br />
<br />
内装がきれいで、建物自体も展示物のようです。向こうのミュージアムはどこも内部で写真が撮れるからいいですよね。<br />
また、別の機会に詳しく紹介していきたいと思います。<br />
<br />
<br />
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]]></content></entry><entry><title>ローマの遺跡　マクセンティウス帝のバシリカ</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.ha-coins.shop-pro.jp/?eid=604584" /><id>http://blog.ha-coins.shop-pro.jp/?eid=604584</id><issued>2009-08-25T17:42:01+09:00</issued><modified>2010-03-03T15:00:00Z</modified><created>2009-08-25T08:42:01Z</created><summary>ひさしぶりにローマ遺跡の話です。
今回はフォロ・ロマーノに建つマクセンティウス帝のバシリカを取り上げてみたいと思います。
マクセンティウス帝のバシリカ（Basilica Maxentius）

マクセンティウス帝とコンスタンティヌス帝のバシリカとも呼ばれます。
この建物は帝政末期...</summary><author><name>ロマーヌス</name></author><dc:subject>ローマ遺跡</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[ひさしぶりにローマ遺跡の話です。<br />
今回はフォロ・ロマーノに建つマクセンティウス帝のバシリカを取り上げてみたいと思います。<br />
<img src="images/RIMG0107.JPG" width="392" height="294" alt="" class="pict" />マクセンティウス帝のバシリカ（Basilica Maxentius）<br />
<br />
マクセンティウス帝とコンスタンティヌス帝のバシリカとも呼ばれます。<br />
この建物は帝政末期を代表する巨大建造物で、ディオクレティアヌス帝による四分割統治後の内乱期の皇帝の一人、マクセンティウス帝によって紀元308年に建造が開始されました。<br />
その後、権力を握ったコンスタンティヌス帝によって紀元312年に完成しました。<br />
<br />
上の写真は巨大な長方形の建物であるバシリカの片側の身廊部分にあたります。中央と反対側は崩壊して今は原型を留めていません。<br />
簡単にいえばこの倍以上の大きさの建物だったということになります。<br />
今ある部分の大きさは、長さ約80ｍ奥行25ｍ高さ25ｍあり、同じく巨大建造物であるカラカラ浴場などと同様にコンクリートによりできています。<br />
<br />
<img src="images/RIMG0110.JPG" width="245" height="326" alt="" class="pict" />上の写真の中央の部分。<br />
<br />
かなり天井が高い印象です。天井部には浮き彫りの装飾が見られます。<br />
<br />
<img src="images/RIMG0111.JPG" width="392" height="294" alt="" class="pict" />建物の入口に近い側の部分。<br />
<br />
アーチの右上の部分には柱の柱頭の装飾が残っています。<br />
<br />
<br />
マクセンティウス帝は第一次の「四頭政 テトラルキア」の時に西方正帝だったマクシミアヌス帝の息子で、マクシミアヌスがディオクレティアヌスとともに帝位を返上した後の混乱期にクーデターにより、イタリアで皇帝を宣言しました。<br />
複数の外敵に囲まれていた当時のローマ帝国にとって、理想的とも思えた4人の皇帝による帝国統治は、これにより崩壊し、内乱期となります。<br />
<br />
帝国の西方の副帝となっていたコンスタンティヌスは正帝リキニウスと連合を組み、マクセンティウス討伐に向かい、紀元312年10月27日、ローマ史上名高い「ミルヴィウス橋の戦闘」が起りました。<br />
戦いに勝利したコンスタンティヌスはこの後、勢力を拡大していくことになります。<br />
<br />
紀元306年には6人もいた皇帝は、紀元313年には3人になり、またその3人で争うことで、324年にはコンスタンティヌス一人が最後の権力者として残ります。<br />
これにより、四分割統治以前の一人の皇帝による統治に戻ることとなりました。<br />
<br />
<br />
<img src="images/RIMG0112.JPG" width="392" height="294" alt="" class="pict" />バシリカ入口側から奥を望む。<br />
<br />
<img src="images/RIMG0113.JPG" width="359" height="269" alt="" class="pict" />バシリカ建物の奥の部分。<br />
<br />
この位置は中央の身廊の後陣（アプシス）があり、ここにコンスタンティヌス帝の巨像が据えられていました。今でもカピトリーニ美術館でこの像の一部（頭と手足のみ）をみることができます。<br />
結構有名な像なので写真などでご覧になった方も多いかと思います。<br />
<br />
<br />
これ以降の都市としての「ローマ」は、コンスタンティヌス帝がコンスタンティノープルに新都を置いたことで、権力の中心からは離れていきます。また、それにより巨大な建造物が建てられることもなくなりました。<br />
マクセンティウス帝のバシリカは、フォロ・ロマーノで最大の建造物ですが、これ以後は都市「ローマ」は衰退の時期に入っていくことになります。<br />
<br />
<br />
<br />
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]]></content></entry><entry><title>ローマの城門　マッジョーレ門</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.ha-coins.shop-pro.jp/?eid=570208" /><id>http://blog.ha-coins.shop-pro.jp/?eid=570208</id><issued>2009-06-02T12:59:40+09:00</issued><modified>2010-03-03T15:00:00Z</modified><created>2009-06-02T03:59:40Z</created><summary>テルミニ駅の駅の横を通るＧ・ジョリッティ通りを南東に1ｋｍ程行った所に古代ローマ時代の城門の一つであるマッジョーレ門があります。
北西側から見たマッジョーレ門

古代ローマ街道であるラビカーナ街道とプレネスティーナ街道に跨るように位置し、同街道のローマ側の起...</summary><author><name>ロマーヌス</name></author><dc:subject>ローマ遺跡</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[テルミニ駅の駅の横を通るＧ・ジョリッティ通りを南東に1ｋｍ程行った所に古代ローマ時代の城門の一つであるマッジョーレ門があります。<br />
<img src="images/RIMG0368.JPG" width="400" height="322" alt="" class="pict" />北西側から見たマッジョーレ門<br />
<br />
古代ローマ街道であるラビカーナ街道とプレネスティーナ街道に跨るように位置し、同街道のローマ側の起点ともなっています。<br />
この門はローマの城門の中でもちょっと変わった作りになっていますが、これは元々が水道橋の一部だからという理由があります。<br />
<br />
<br />
<img src="images/RIMG0367.JPG" width="397" height="126" alt="" class="pict" />北西側の上部の碑文<br />
<br />
門の上部に碑文が刻んでありますが、読める部分を拾ってみると、<br />
「CLAVDIVS IE CAISAR AVGVSTVS GERMANICVS PONTIF MAXIM <br />
TRIBVNICIA POTESTAT( ) XII COS V IMPERATOR XXVII PATER PATIAE AQVAS CLADIA M EX FONTIBVS O VIVO CABANTVR CAERVLEVS II CVRTIVS A MILLI ARIO XXXXV  <br />
(?)ITEM ANIENE M NOVA M A MILLIARIO LXII SVA IMP ENSA INVRBEM PER DV CENDAS CVRAVIL」<br />
<br />
「IMP CAESAR VESPASIANVS AVGVST PONTIF IMP VI COSIII DESIG IIII PP<br />
AQVAS (?) TIAMET CAERVLEA M PER DVCTAS A DIVO CLAVDIO FT POSTLAINTER MISSASDIL APSASQVE <br />
PER ANNOS NOVEM SVA IMPENSA VRBT RESTI ITVIT」<br />
<br />
「IMP T CAESAR DIVI F VESPASIANVS AVGVSTVS PONTIFEX MAXIMVS TRIBVNIC<br />
POTESTE X IMPRATOR XVII PATER PATRIAE CENSOR COSVIII<br />
AQVAD CVRTIAMET CAERVLEAM PER DVCTAS ADIVO CLAVDIO ET POTESTE X IMPRATOR XVII PATER PATRIAE CENSOR COSVIII<br />
AQVAD CVRTIAMET CAERVLEAM PER DVCTAS ADIVO CLAVDIO ET POSTEA<br />
VESPASIAN PATRES R TIRISTI TVTASCVM ACAPITE AQARVM ASOLOVETVS TATEDILAPSAEESSE INOVAFORMAR TDVCENDASSVAIMOEN SACVRA VII<br />
」<br />
<br />
と刻まれています。<br />
（自分なりに写真から拾ってみた文章なので、スペルが間違っている部分もあると思います。特に単語の切れ目に不明な部分があります。）<br />
<br />
簡単に解釈してみると、<br />
上段から、国父の称号、護民官職権を12回、インペラトール（大将軍）を27回得て、執政官を5回、また最高神祇官を務めたごクラウディウス帝は自らの費用でクルティウス、カエルレウスの名の泉から水を引いたこと、クラウディア水道は45ローママイル、新アニオ水道が62ローママイルの長さであることが書かれています。<br />
中段、下段には、国父の称号、インペラトールを6回得て、執政官を3回、最高神祇官を務めたヴェスパシアヌス帝が9年間使用不能になっていたクラウディア水道を再び市内にもたらしたこと、護民官職権を得て、最高神祇官を務めたティトゥス帝がクラウディア水道を改修したことが書かれています。<br />
<br />
碑文の文章は切れ目がなく書かれているため、単語の切れ目がわかりにくいのと、おそらく省略されている部分があるので正確に訳すとなると難しそうです。<br />
<br />
<br />
マッジョーレ門の原型である元々の水道橋は、紀元52年にクラウディウス帝によって建造されたもので、新アニオ水道とクラウディア水道という新設された2つの水道を通していました。<br />
<br />
<img src="images/RIMG0370.JPG" width="392" height="294" alt="" class="pict" />南東から見上げたマッジョーレ門<br />
<br />
門の上部を見ると、水道が2本通っていたことがわかると思います。<br />
<br />
この門の北東側には当時、ユリア水道、テプラ水道、マルキア水道という紀元前からあった水道があり、マッジョーレ門には合計して5本もの水道が集まっていました。<br />
紀元1世紀半ばの時点での、ローマへの水の供給量は100万&#13221;を超えていて、人口が100万人とするならば、一人当り1&#13221;あり、現在の東京都民の倍の数字にあたりました。実際には配水途中で失われる水があったことを考慮しても現代社会と同程度の水準を持っていたといっても良いと思います。<br />
その後もローマには2本の水道が作られたので、合計11本の水道を持つ都市となりました。<br />
<br />
<img src="images/RIMG0372.JPG" width="392" height="294" alt="" class="pict" />南東側のマッジョーレ門<br />
<br />
手前に見える穴がいくつか開いた建造物は、共和政末期に製パンで財を成したエウリサケスの墓で、この一帯がローマの他の街道と同じく墓所であったことがわかります。<br />
<br />
<br />
<img src="images/RIMG0373.JPG" width="359" height="269" alt="" class="pict" />南東側の門左側<br />
<br />
マッジョーレ門は、紀元271年にアウレリアヌスの城壁に組み込まれて、紀元405年にホノリウス帝が城壁を増強させた時に、門の改修がなされています。<br />
写真は門と一体となった城壁の一部で、門の左右は同じ作りになっています。<br />
城壁には見張り台が作られているので、城壁であることがわかると思います。城壁については、アッピア街道への出口であるサンセバスティアーノ門の方に城壁博物館というものがあるそうなので、いずれ見に行きたいと思います。城壁の上を歩けるそうなので、ちょっと面白そうです。<br />
<br />
　<br />
<br />
車と人が行き交い、今でも交通の要衝であることがわかります。古代ローマの風情と威厳を持つローマの城門は、その街道を通ってくる人々にとっての最初のローマとなる「顔」でもあります。<br />
当時の様子を思い浮かべながら、この門の前に立つと「世界の首都」として君臨したローマの一端がみえるような気がします。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
ＰＳ：ひさしぶりの更新となってしまいました。もう少し書けるように頑張ってみたいと思います。<br />
<br />
テルミニ駅からの行き方は、歩いても良いですが、地下鉄Ａ線のマンゾーニ駅（テルミニ駅から2つ目）から歩いて行った方が近いかと思います。観光地という感じではなく、ごく一般の市民が利用する門なので、写真を撮るのはちょっと撮りづらいかもしれないです。<br />
ローマの城門は一つ一つ違った形状をしていて、それぞれ違う魅力があるので、いずれ一つ一つ巡ってみたいと思います。<br />
<br />
<br />
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「軍人皇帝時代の研究」　井上文則著　岩波書店　2008年

「ローマが全面的危機に突入した軍人皇帝時代は、元首政が崩壊すると同時に、まったく新たな政治体制が成立した時代であった。統治構造の決定...</summary><author><name>ロマーヌス</name></author><dc:subject>書籍</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[今回はローマ史の中ではマイナーな部類に入る軍人皇帝時代の本紹介です。<br />
<img src="images/Scan0020.jpg" width="169" height="234" alt="" class="pict" />「軍人皇帝時代の研究」　井上文則著　岩波書店　2008年<br />
<br />
「ローマが全面的危機に突入した軍人皇帝時代は、元首政が崩壊すると同時に、まったく新たな政治体制が成立した時代であった。統治構造の決定的変容を明らかにし、ローマ帝政史の全体像を問い直す画期的論考。<br />
<br />
「・・・前後のローマ帝国の狭間、ないしブラックボックスのような位置に置かれてきた軍人皇帝時代にこそ、実は、その後のローマ帝国のあり方を根底的に規定することになる諸要素が現れていたことが知られるのであり、言い方を変えれば、この時代に対する十分な理解なしには、前期から後期へのローマ帝国変容の過程を明らかにすることもできないことになるのである。」<br />
<br />
<br />
<br />
軍人皇帝時代は研究対象として、これまで帝政前期や後期に比べてあまり取り上げられることが少ない分野でした。<br />
しかし、ローマ帝国の統治機構および体制について語られる場合において、前期の君主政（プリンキパトゥス）から後期の専制君主政（ドミナートゥス）への移行のプロセスはあまり明らかにされてこなかったため、突然に政治体制が変わったような印象がありました。<br />
<br />
このいわばローマの政治体制におけるブラックボックスともいえる軍人皇帝時代について取り上げた本書は、ローマ史を学ぶ人にとって有意義なものではないかと思います。<br />
<br />
<br />
内容ですが、<br />
序章　軍人皇帝時代の政治史研究<br />
?　「騎士身分の興隆」再考<br />
第一章　「ガリエヌス勅令」をめぐって<br />
第二章　プロテクトルの変遷<br />
第三章　機動軍の形成<br />
第四章　パルミラの支配者オダエナトゥスの経歴<br />
<br />
?　イリュリア人のローマ帝国<br />
第五章　イリュリア人皇帝支配下のローマ帝国<br />
第六章　タキトゥス帝即位の謎<br />
第七章　軍人皇帝時代以後の「イリュリア人」<br />
終章　イリュリア人の興亡とローマ帝国の変容<br />
<br />
となっています。<br />
<br />
<br />
前半で軍人皇帝時代にその地位を高めていった騎士身分（エクイタス）について取り上げていますが、これは君主政の時代には元老院身分が担っていた各政治的ポストを、君主政崩壊後は騎士身分が担っていったからであり、この経緯を明らかにしています。<br />
第三章では「機動軍」と呼ばれるものが出てきますが、これはガリエヌス帝以降の皇帝が率いていた軍隊の一つで、後に皇帝を擁立するほど力を持った存在となっていました。<br />
首都ローマに君臨する皇帝によって統治された君主政時代と違って、軍人皇帝時代は皇帝がローマにいることや行くことは極めて少なくなり、皇帝自身が戦線へ出ていったため、ある特定の軍隊機構自体が政治の中心となりました。<br />
<br />
<br />
まず軍人皇帝時代について簡単に説明すると、時代としては235年〜284年までの約50年間を指します。この短い期間に即位した皇帝の数はマクシミヌス・トラクス帝からカリヌス帝までの21名であり、各僭称帝を入れるともっと数が増えます。<br />
またこの期間にはローマ帝国は分裂してガリア帝国やパルミラ王国に版図が分かれていた時期があるので、その統治者を含めるとさらに増えることになります。いかに混乱を極めていた時期かは統治者の数の多さでも分かります。<br />
同じ年に6人の皇帝が次々擁立された238年がこの時代を象徴するような始まりの時期ですが、その後も次々と皇帝が替わっていきました。ヴァレリアヌス帝（253年〜260年）に至ってはササン朝ペルシャに捕囚されるというローマ帝国史上前代未聞の事態に陥りました。<br />
<br />
<br />
このことが原因となり極めて不安定な政治状況となったローマ帝国内では不穏な空気が広がり、西側ではポストゥムスがガリアを中心としてガリア帝国を成立させ、東側ではシリアの隊商都市パルミラを中心にパルミラ王国が成立し、ローマ帝国が分裂するに至りました。<br />
<br />
<br />
その後、ローマ皇帝は「イリュリア人」と呼ばれるパンノニア属州のあるイリュリア地方出身の軍人が就いていくことになります。<br />
イリュリア人皇帝の中でも有名な人物は、ガリア帝国やパルミラ王国を滅ぼしローマ帝国を再統一させたアウレリアヌス帝ですが、彼もその功績にも関わらず部下に暗殺されています。<br />
<br />
<br />
このイリュリア人皇帝の時代を通して、騎士身分が担っていた機動軍を中心とした政治体制が確立し、皇帝権力の基盤がローマ人民や元老院ではなく、一部の軍隊に移行していきます。<br />
この体制は専制君主制を確立したとされるディオクレティアヌス帝の四分割統治下でも受け継がれていきます。<br />
しかし、その後のコンスタンティヌス帝治下では元老院身分の復活と登用がされており、皇帝を擁立するような機動軍の存在もなくなります。<br />
皇帝はコンスタンティヌス帝の血族によって継承され、コンスタンティヌス朝が確立しました。<br />
<br />
<br />
全体の流れは以上のようなものですが、まとめると君主政が崩壊し、専制君主政へ移行する過程に軍人皇帝時代の機動軍による政治体制がありました。この段階で元老院を中心とした旧指導者層の力は失われていき、皇帝と軍隊とに力が集中し、ディオクレティアヌス帝によって、皇帝は市民の第一人者ではなく、市民から離れて君臨する存在となったのでした。<br />
<br />
<br />
このような流れを知る上でも、本書のように軍人皇帝時代について調べていくことは重要といえそうです。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
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]]></content></entry><entry><title>元老院議場　クリア・ユリア</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.ha-coins.shop-pro.jp/?eid=533260" /><id>http://blog.ha-coins.shop-pro.jp/?eid=533260</id><issued>2009-03-11T12:26:29+09:00</issued><modified>2010-03-03T15:00:00Z</modified><created>2009-03-11T03:26:29Z</created><summary>フォロ・ロマーノのカピトリーノの丘側にあるセヴェルス凱旋門をくぐってすぐ左には、ローマ帝国の政治の中枢ともいえる元老院議場が今も建っています。
クリア・ユリアのファサード


共和政ローマ時代に国政を担っていた元老院の常設議場としては、このクリア・ユリア以前に...</summary><author><name>ロマーヌス</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[フォロ・ロマーノのカピトリーノの丘側にあるセヴェルス凱旋門をくぐってすぐ左には、ローマ帝国の政治の中枢ともいえる元老院議場が今も建っています。<br />
<img src="images/RIMG0021.JPG" width="294" height="392" alt="" class="pict" />クリア・ユリアのファサード<br />
<br />
<br />
共和政ローマ時代に国政を担っていた元老院の常設議場としては、このクリア・ユリア以前にも紀元前7世紀に建てられたとされるクリア・ホスティリウスがありました。<br />
しかし、紀元前80年のスッラの決定により、元老院定員が300名から600名に増員されたことで、建物の再建が必要となり、クリア・コルネリアが建設されました。<br />
<br />
その後、紀元前44年のカエサルによるフォロ・ロマーノ大改造に伴い、場所を変えて現在の位置にクリア・ユリアが建設されるに至りました。完成したのはアウグストゥスの時代の紀元前29年でした。ちなみにクリア・ユリアのユリアはカエサルの属するユリウス氏族の名から取られたもので、建設した人の名がつくのが通例となっていました。<br />
<br />
<br />
<img src="images/RIMG0043.JPG" width="359" height="269" alt="" class="pict" />クリア・ユリアの背面<br />
<br />
棟高が高く、細長いフォルムをしているのが印象的です。<br />
<br />
「そこに召集される会議の重要性にふさわしい威厳を醸し出すために、このような形でなくてはならない。」と建築家のウィトルウィウスは言ったとされています。<br />
彼によれば、クリアの高さは少なくともファサードの幅以上でなければならないとされており、彼はカエサル、アウグストゥスにも仕えていたから、建物の形状を見る限り、クリアの建設には大きな影響を与えたということがわかります。<br />
<br />
その後、ローマ帝国時代の他の都市にもクリア（この場合は都市参事会）が建設されましたが、やはりフォロの中で高くそびえ立つように建てられていました。帝政移行後は各都市はローマ市をまねて建物を建てていったから、このローマにあるクリアはローマ帝国の権威の象徴のようなものだったといえます。<br />
<br />
<img src="images/RIMG0038.JPG" width="269" height="359" alt="" class="pict" />クリア・ユリア内部の様子<br />
<br />
内部に入ってみると確かにこの天井が高い空間は、音を出してみるとわかりますが、音がよく響き渡るようになっています。議場を飛び交う声や演説をする議員の声が重厚に響き渡ったと想像されます。<br />
<br />
内部は約20ｍ×約17ｍの長方形のシンプルな作りで、左右3段ずつの空間には一段に各50名ずつで合計300名の議席が設置されていました。<br />
<br />
正面奥にはかつては「勝利の祭壇」が設置されており、ヴィクトリア女神の像が置かれていましたが、4世紀になってから外されてしまいました。<br />
<br />
<img src="images/RIMG0036.JPG" width="359" height="269" alt="" class="pict" />内部の床<br />
<br />
床は大理石の象嵌細工で意匠がとても凝っています。<br />
<br />
<br />
<img src="images/RIMG0042.JPG" width="392" height="294" alt="" class="pict" />クリア・ユリアの入口を入った所に左右にある祭壇の浮き彫り。これは右側のもの。<br />
<br />
この浮き彫りのあるパネルはフォロで発見されたもので、「食料供給を行なう寛容なトラヤヌス帝の姿」という図のようです。<br />
クリア・ユリアには中には入っていけないので、近寄ることができず詳細は見えないのが残念なところです。<br />
浮き彫りが損傷しているせいでトラヤヌス帝かどうかまでは判別できないですが、一段高い位置にいるのが皇帝かもしれません。<br />
<br />
<br />
現在のクリア・ユリアの状態をみてもわかりますが、状態が良いのは20世紀になってから復元されたものであるからです。<br />
しかし、クリアの建物自体はディオクレティアヌス帝の改修された後、ローマ帝国後も教会に転用されていたから、ここまで復元ができたのだと思います。<br />
<br />
遺跡の復元は詳細がわからないということも多く、またすべての建物を復元してしまってもかえって遺跡の雰囲気や価値を落とすものともなりかねないので難しいところです。<br />
このフォロ・ロマーノのクリアはフォロ全体の雰囲気ともマッチした状態での復元なので、現在の人間が古代ローマ帝国時代の政治の中心を感じる場所としてとても貴重なものとなっています。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
ＰＳ：ひさしぶりの更新となってしまいました。古代ローマの本や塩野さんの「ローマ亡き後の地中海世界」の下巻を読んだりとはしているのですが、筆不精となってしまいました。なるべく更新できるようにしていきたいと思いますので、よろしくお願いします。<br />
<br />
<br />
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]]></content></entry><entry><title>ローマ亡き後の地中海世界</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.ha-coins.shop-pro.jp/?eid=507771" /><id>http://blog.ha-coins.shop-pro.jp/?eid=507771</id><issued>2009-01-14T09:17:29+09:00</issued><modified>2010-03-03T15:00:00Z</modified><created>2009-01-14T00:17:29Z</created><summary>ひさしぶりの更新です。今回は塩野さんの「ローマ人の物語」の続編にあたる本の紹介をしたいと思います。装丁もほぼ同じものとなっており、古代ローマファンも必見の本です。
「ローマ亡き後の地中海世界　上」　塩野七生著　新潮社


「サラセンの海賊は、黒地に白く髑髏を染...</summary><author><name>ロマーヌス</name></author><dc:subject>書籍</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[ひさしぶりの更新です。今回は塩野さんの「ローマ人の物語」の続編にあたる本の紹介をしたいと思います。装丁もほぼ同じものとなっており、古代ローマファンも必見の本です。<br />
<img src="images/Scan0018.jpg" width="145" height="192" alt="" class="pict" />「ローマ亡き後の地中海世界　上」　塩野七生著　新潮社<br />
<br />
<br />
「サラセンの海賊は、黒地に白く髑髏を染めた旗を帆柱高くかかげながら襲撃してくるわけではなく、また、イスラム教徒の船であることを示して、緑色の地に白く半月を染めた旗をかかげてくるわけでもなかった。・・・望遠鏡もない時代、接近してくる船の実体を一刻も早く判明しようと必死に目をこらす、塔の上の見張りの心境には同情せざるをえない。・・・「暗黒の中世」と後の世の歴史家たちは言う。その一方では、中世は暗黒ではなかった、と主張する学者たちもいる。だが、少なくともイタリア半島とシチリアに住む人々にとっては暗黒以外の何ものでもなかったのが、彼らが生きた「中世」なのであった。」<br />
<br />
<br />
この帯に書かれた一文を読んでわかる通り、この本のメインテーマはイスラムの海賊対イタリア及びシチリアの戦いの歴史となっています。<br />
といっても、ほとんどの場合は一方的にイスラムに略奪された歴史ではありますが・・。<br />
「パクス・ロマーナ」が崩れるとはどういうことかをまさに話のテーマにした作品で、ローマ帝国後のイタリアを中心とした地中海世界がどうなったのかを知るには、とても興味深い本だと思います。<br />
<br />
塩野さんはこれまでに、ローマ帝国、ルネサンス、ヴェネツィア共和国、ルネサンス期のローマ法王についての本を書いているので、本書はローマ帝国後とルネサンスの間の歴史を埋めるという内容になっています。<br />
<br />
<br />
しかし、中世の時代はローマ帝国後に分裂した各国家の歴史になるので、一つの通史を作ることはほぼ不可能といえます。そういったこともあり、舞台をほぼイタリアに限定した内容となっています。<br />
また十字軍については上下巻を通しても簡単に触れる程度になりそうです。理由としては、十字軍の話となるとエルサレムなど東地中海の話が主になるからだと思われます。<br />
<br />
<br />
<br />
では内容の紹介です。<br />
<br />
はじめに<br />
<br />
第一章　内海から境界の海へ<br />
<br />
イスラムの台頭、サラセン人、海賊、拉致、さらなる進出、神聖ローマ帝国、狙われる修道院、聖戦ジハード、スキピオを夢見て、ローマへ、パレルモ陥落、北アフリカのイスラム社会、ガエタ、ナポリ、アマルフィ、再びローマへ、聖戦グエッラ・サンタ、海の共和国、サラセンの塔、シラクサ落城、「十字軍時代」以前の十字軍<br />
<br />
間奏曲　ある種の共生<br />
<br />
イスラムの寛容、イスラム・シチリア、地中海の奇跡<br />
<br />
第二章　「聖戦　ジハード」と「聖戦　グエッラ・サンタ」の時代<br />
<br />
海賊行つづく、イタリア起つ、ノルマン人がやって来た！、イタリアの海洋都市国家、アマルフィ、ピサ、そしてジェノヴァ、ヴェネツィアの海賊対策、「十字軍」時代、やられない前にやる、最後の十字軍、イタリアの経済人たち、交易商品、サハラの黄金<br />
<br />
第三章　二つの、国境なき団体<br />
救出修道会、救出騎士団<br />
<br />
巻末カラー<br />
年表<br />
<br />
となっています。小見出しをみてわかる通り、ほぼイスラムの海賊とそれに対処するイタリアの海洋国家、法王の話となっています。<br />
<br />
<br />
<br />
ちょっと気になった小見出しに「神聖ローマ帝国」というものがあります。<br />
読んでいるとカール大帝が紀元800年に神聖ローマ皇帝の冠を授けられたとなっていますが、これはどう考えても西ローマ皇帝の冠の間違いではないかと思います。<br />
そもそも神聖ローマ帝国は962年のオットー大帝の戴冠に始まるとされていて、カール大帝が治めていた国はフランク王国だったから、ここで神聖ローマ帝国が出てくるのは、ちょっとおかしいなという気がします。<br />
<br />
フランク王国が解体して、西フランク王国（後のフランス）、東フランク王国（後の神聖ローマ帝国）、ロタールの王国（のちのロートリンゲン、ロレーヌ、イタリア王国）となります。つまり神聖ローマ帝国はフランク王国の後継国家にあたるので、話の大筋はそんなにずれてこないのですが、ちょっと認識違いではないかと思います。<br />
<br />
<br />
<br />
なんでここで、イタリアの話なのに神聖ローマ帝国の話が出てくるのか、わからないという方もいると思うので、簡単に説明するとローマ帝国後のイタリアはオドアケルの王国、東ゴート王国、ビザンチン帝国（イタリア全域、後に南部のみ）ロンゴバルド王国（北部のみ）と支配者が替わっていきます。<br />
そして、8世紀後半にカール大帝によるロンゴバルド王国滅亡により、イタリア北部から中部にかけては、フランク王国の支配下となります。<br />
しかし、フランク王国は843年のヴェルダン条約により3つに分裂します。<br />
<br />
イタリアはロタールの王国（中フランク王国とも呼ぶ）に属していましたが、ロタールの王国は長く続かず、962年以降は神聖ローマ皇帝がイタリア王を兼ねるようになりました。<br />
というわけで、北部から中部にかけてのイタリアには王は在住していないものの、名目上の支配者は神聖ローマ帝国だったため、イタリアに深く関わっていました。<br />
ちなみにイタリア南部は半ば名目的なビザンチン帝国支配から、12世紀になってからシチリア王国の支配下へと替わりました。<br />
<br />
<br />
<br />
イタリアの歴史についての話が長くなってしまいましたが、本の内容に戻すとこれまであまり他の歴史書でも読んでこなかったような海賊メインの話となっていて、かなり興味そそられるものがありました。<br />
<br />
ティレニア海沿岸にある都市や、少し内陸にある都市や修道院なども略奪の対象となっていました。貴金属や金目のもの以外にも、奴隷市場で売りさばくために人々を拉致するのも彼ら海賊の常でした。<br />
<br />
<br />
中世の時代、イタリアを直接支配する国（ビザンチン帝国、フランク王国、ロンゴバルド王国など）は彼らイスラムの海賊に対し、あまり干渉せず、弱腰の態度をとっていました。その理由としては、内紛や他の地域の領土防衛、またイタリア自体が彼らにとって辺境であったからでした。<br />
<br />
そんななかで、一時はローマにまで海賊が来て、城壁外にあった聖ピエトロ寺院までも略奪していったというから、イタリアにとっては深刻な事態でした。またこれは、キリスト教社会にとってもローマ法王の所在地を襲われることは重大な事件であり、もし陥落すれば、イタリア全土もイスラム化していたかもしれません。<br />
<br />
<br />
<br />
これに対処したのが、ローマ法王とその呼びかけに応じた海洋国家でした。アマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアであり、彼らの成長と十字軍、ノルマン人のシチリア侵略によって、なんとかイタリア本土のイスラム化は避けることができたのでした。<br />
<br />
<br />
それでも、一部の港や当時はビザンチン帝国領だった南部イタリアの都市は相当にイスラムの支配を受けており、イタリアのイスラム化は有り得る歴史だったのだと感じることができました。<br />
<br />
<br />
まだ、上巻のみの刊行なので、下巻にも期待したいと思います。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
ＰＳ：この本の下巻を書いた後は十字軍メインの話でも書いて欲しいところですね。でも塩野さんはやはりイタリアが好きだと思うので、イタリアのどこかの時代の話でしょうか。いずれにしろ、塩野作品は何度読んでも面白いので、新刊が気になるところです。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
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セプティミウス・セヴェルス凱旋門（Arcus Septimii Severi)　
フォロ・ロマーノ側

この凱旋門は、セプティミウス・セヴェルス帝が紀元203年にパルティアに対する戦勝記念...</summary><author><name>ロマーヌス</name></author><dc:subject>ローマ遺跡</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[フォロ・ロマーノのヴィア・サクラ（聖道）の突き当たりに威風堂々としたこの凱旋門は立っています。<br />
<img src="images/RIMG0022.JPG" width="392" height="294" alt="" class="pict" />セプティミウス・セヴェルス凱旋門（Arcus Septimii Severi)　<br />
フォロ・ロマーノ側<br />
<br />
この凱旋門は、セプティミウス・セヴェルス帝が紀元203年にパルティアに対する戦勝記念として建造させたもので、高さ23ｍ、幅25ｍの大きさがあります。<br />
フォロ・ロマーノに記念物が建てられたのはドミティアヌス帝以来だったから、実に1世紀が経過していることになります。五賢帝の時代にもダキア戦などの戦勝があり、トラヤヌス記念柱など建造されていますが、フォロ・ロマーノの外にあるので、フォロ・ロマーノ内ということでは久々の建造でした。<br />
<br />
<img src="images/RIMG0006.JPG" width="294" height="392" alt="" class="pict" />カピトリーノの丘側から凱旋門を望む<br />
<br />
<br />
紀元194年にペスケンニウス・ニゲルを、197年にクロディウス・アルビヌスを相次いで破って唯一の皇帝となったセヴェルス帝は、2年後の199年にパルティア遠征を敢行します。<br />
理由はパルティア側の不穏な動きということでしたが、内戦の勝利ではなく、対外的な勝利の成果を出したかったという部分の方が大きいかもしれません。<br />
195年にもパルティア遠征を行なっていましたが、度重なるローマの攻撃にパルティア側には反撃する余力もなく、ローマ軍は首都クテシフォンを陥落させるに至ります。そして、この遠征の成果として北部メソポタミアを属州に組み込みました。<br />
この戦勝により、凱旋門が建造されることになりました。<br />
<br />
<br />
<img src="images/RIMG0014.JPG" width="392" height="214" alt="" class="pict" />凱旋門上部の碑文<br />
<br />
「IMP CAES　LVCIO　SEPTIMO　M FIL SEVERO　PIO　PETINACI　AVG　PATRI　PATRIAE　PARTHICO　ARABICO　ET PARTHICO　ADIABENICO　PONTIFIC MAXIMO　TRIBNIC POTEST　XI IMP XI COS　III　PROCOS　ET　IMP CAES　M AVRELIO L　FIL　ANTININO　AVG　PIO　FELICI　TRIBVNIC　POTEST VI　COS　PROCOS　PP　<br />
OPTIMIS　FORTISSIMISQUE　PRINCIPIBVS　<br />
OB　REM　PVBLICAM　RESTITVTAM　IMPERIVMQVE　POPVLI ROMANI　PROPAGATVM　<br />
INSIGNIBVS　VIRTVTIBIBVS　ERVM　DOMI　FORISQVE　SPQR」<br />
と書いてあります。（読みやすいようにピリオドは省きスペースを入れています。）<br />
<br />
意味は「ルキウス・セプティミウス・セヴェルス帝は、11回インペラトール及び護民官職権を得て、3回執政官及び前執政官を務め、最高神祇官、国父、パルティコ・アラビア人及びパルティコ・アディアベナ人の征服者となった。ピウス、フェリックス、国父の称号を得て、6回護民官職権を得て執政官と前執政官を務めたマルクス・アウレリウス・アントニヌスもまたそうである。<br />
共和国を守り、ローマ帝国の領土を拡大したこのような最強の2人に、国内外での傑出した能力を認めたため、元老院及びローマ市民が彼らに捧げる。」<br />
<br />
一部意訳ですが、大体の意味はこのようなものとなります。マルクス・アウレリウス・アントニヌスとはカラカラ帝のことですが、この時はカエサルの称号を得ていたので次期皇帝の地位にいました。<br />
<br />
<br />
パルティア遠征にはカラカラ及びゲタも従軍していたので、この凱旋門には彼らの記念碑でもありました。しかしゲタのレリーフなどの部分は、カラカラ帝即位し、ゲタを殺害した後に取り去ってしまったようです。<br />
<br />
<br />
<img src="images/RIMG0018.JPG" width="326" height="245" alt="" class="pict" />中央アーチの上部<br />
<br />
翼のはえたヴィクトリア神が描かれています。中央の部分には破損していますがマルス・ヴィクトル神の像があります。<br />
<br />
<img src="images/RIMG0020.JPG" width="326" height="245" alt="" class="pict" />フォロ・ロマーノ側のアーチ左側<br />
<br />
上の方のレリーフにはセヴェルス帝のパルティア遠征の様子が描かれており、下の柱の部分にはパルティア人捕虜を連れるローマ兵などのレリーフが描かれています。<br />
<br />
<br />
フォロロマーノにはティトゥス帝とこのセプティミウス・セヴェルス帝の凱旋門がありますが、保存状態も比較的良く、ローマ時代の雰囲気を残しています。やはりこの凱旋門というのは、コロッセオや水道橋と並んで、ローマ帝国の偉大さ感じるモニュメントではないでしょうか。<br />
<br />
<br />
この場所に立って、ヴィア・サクラからカピトリーノの丘に建つユピテル神殿に向けて、四頭立ての戦車で凱旋するセプティミウス・セヴェルス帝の姿を思い浮かべると、さぞ壮大だったろうと想像されます。<br />
ローマ遺跡には一つ一つにドラマがあり、それにふれることで古代のロマンを感じさせます。<br />
<br />
<br />
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バシリカ入口から内部を望む

バシリカとは「王の列柱廊」を意味するギリシャ語からついた名で、古代ローマ都市では、フォ...</summary><author><name>ロマーヌス</name></author><dc:subject>ポンペイ遺跡</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[今回はポンペイ遺跡の中でも最も重要な建築物の一つであるバシリカを紹介します。このバシリカは公共施設であり、商取引や法廷として使用されました。<br />
<img src="images/RIMG0416.JPG" width="392" height="294" alt="" class="pict" />バシリカ入口から内部を望む<br />
<br />
バシリカとは「王の列柱廊」を意味するギリシャ語からついた名で、古代ローマ都市では、フォルムを形成する重要な建造物の一つでした。<br />
バシリカは、ローマ都市には必ずといっても良いほど建てられていた典型的なローマ建築で、ローマ帝国後もキリスト教会に転用されたり、教会の建物自体をバシリカ式に作るようにもなりました。このことから、建築史的にも重要な建造物といえます。<br />
他の重要な建造物にはクリア（元老院または都市参事会）、カピトリウム神殿などがあります。<br />
<br />
ポンペイのバシリカは、起源が古く、紀元前2世紀半ば頃に建てられたもので、横幅24ｍ×奥行55ｍという長方形の巨大な建物でした。内部は、2列のれんがと大理石製の列柱により、3つの身廊に分かれています。<br />
中心部分には屋根はありませんでしたが、列柱の外側部分、つまり柱と壁の間には屋根が架けられていました。<br />
<br />
<img src="images/RIMG0435.JPG" width="392" height="294" alt="" class="pict" />バシリカ奥より入口側を望む<br />
<br />
長く続く列柱と外壁。建物の大きさが実感できるかと思います。<br />
今現在はれんが製の建造物にしか見えませんが、当時は大理石で覆われており、さぞ壮麗だったろうと想像されます。<br />
<br />
<br />
<img src="images/RIMG0418.JPG" width="392" height="294" alt="" class="pict" />バシリカ中心部分から奥を望む<br />
<br />
バシリカ奥にはポディウムと呼ばれる場所が設けられており、裁判を行なう際に司法官たちが座る席がありました。ちょうど奥に見える列柱の前の場所にあたります。このポディウムによりバシリカには威厳ある雰囲気がさらに加えられていました。<br />
<br />
<img src="images/RIMG0432.JPG" width="392" height="294" alt="" class="pict" />バシリカ奥<br />
<br />
列柱の上にさらに列柱がみえますが、この部分の上に屋根があったということだから、かなりの高さになります。ローマの建造物の規模の大きさを窺うことができます。<br />
<br />
このバシリカは、ポンペイの一般市民たちが毎日のように大勢集う場所でした。その証拠にバシリカの至るところ落書きがしてあり、この場所が日常の場所であったことを物語っています。<br />
<br />
<br />
<img src="images/RIMG0436.JPG" width="392" height="294" alt="" class="pict" />ポンペイのフォルム<br />
<br />
<br />
中心がフォルムで写真の方向では左にバシリカ、アポロ神殿、正面にカピトリウム神殿（またはジュピター神殿とも呼ばれます）、右側にヴェスパシアヌス神殿、エウマキア会館、後ろにクリアが位置しています。<br />
<br />
<br />
正面奥に見えるのが、ヴェスヴィオ火山です。<br />
<br />
あの山が噴火してポンペイの町は惨事に見舞われたんですね。この場所に立つと、ヴェスヴィオ山まで何もさえぎるものもないので、噴火による影響は防ぎようがないことが実感できます。<br />
<br />
ポンペイの町は紀元62年の地震によっても被害を受けてはいましたが、繁栄を謳歌するローマ都市の一つでした。<br />
その町が火山の噴火によって一瞬のうちに埋もれてしまい、今にその繁栄の姿を伝えています。<br />
<br />
<br />
ポンペイ遺跡を知ることで、我々はローマの文明について知ることも多く、これからも重要な遺跡であり続けると思います。<br />
遺跡の保存とさらなる未発掘部分の発掘にこれからも期待したいと思います。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
PS：ローマ遺跡に行くなら、やっぱり早朝ですねー。<br />
<br />
今回の写真のような誰もいない状態を撮るのはなかなか難しくて、開場時間の合わせていかないとうまくいかない気がします。今回は天気も良く、すがすがしい空気の中のバシリカを撮ることができました。これからも良いローマ遺跡の写真を記事にしていきたいと思います。<br />
<br />
<br />
<br />
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巨匠ピカソ　愛と創造の奇跡展　国立新美術館　2008年10月4日〜12月14日


今回の企画展は、国立新美術館の「巨匠ピカソ　愛と創造の奇跡展」に加え、サン...</summary><author><name>ロマーヌス</name></author><dc:subject>ミュージアム</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[芸術の秋ということで、ミュージアム紹介です。深まる秋。芸術鑑賞などしてると、とても落ち着いた気持ちになれます。<br />
<img src="images/Scan0017.jpg" width="186" height="253" alt="" class="pict" />巨匠ピカソ　愛と創造の奇跡展　国立新美術館　2008年10月4日〜12月14日<br />
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今回の企画展は、国立新美術館の「巨匠ピカソ　愛と創造の奇跡展」に加え、サントリー美術館の方でも「巨匠ピカソ　魂のポートレート展」というのをやっていて、ピカソ好きな方にはたまらない内容となっています。<br />
とりあえず、国立新美術館の方へ行って来たので紹介したいと思います。<br />
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順を追ってみていくと、青の時代から始まって、バラ色の時代、アフリカ彫刻の時代、キュビスム、新古典主義、シュルレアリスムなど次々に作風を変えていく様子がよくわかる構成になっています。<br />
人物画や静物画、戦争や平和をテーマとしたものなど、いろいろな趣向の絵が描かれていますが、今回の企画展では特に女性の肖像画が目をひきます。<br />
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描かれている彼女たちはピカソの妻や愛人であることも多く、ピカソの波乱万丈の人生を振り返ることができます。<br />
ピカソと関係があった女性には、フェルナンド・オリヴィエにはじまり、マルセル・アンベール、結婚して妻となったオルガ・コクローヴァ、愛人のマリー・テレーズ・ワルテル、ドラ・マール、フランソワーズ・ジロー、ジャクリーヌ・ロックなどと様々で、ピカソが生涯通して恋愛していたことがわかります。<br />
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今回の企画展では、妻のオルガ・コクローヴァ、愛人のマリー・テレーズとドラ・マール、フランソワーズ・ジロー、ジャクリーヌ・ロックの肖像画がありましたが、その絵の移り変わりにはとても興味深いものがあります。<br />
妻のオルガの肖像画で「肘掛け椅子に座るオルガの肖像」という絵がありますが、この絵はとても自然な絵で、いわゆるピカソっぽくない絵でした。<br />
結婚した年である1918年に描かれた絵なので、ピカソの描く女性像もとてもナチュラルで愛情が感じられます。<br />
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しかし、この後に描かれていく絵や彫刻の女性像はどんどん崩れた形になっていきます。女性の内面的な性格などを表していたり、表現が大げさになっていたりして、これぞピカソという絵になっています。<br />
いろんな角度や視点でみると違うものが見えてきたりと、写実的な絵では表現できないものであり、これこそ芸術の面白さだと感じます。<br />
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企画展のパンフレットの絵は「ドラ・マールの肖像」ですが、これとよく似た絵で、「マリー・テレーズの肖像」というのがあります。<br />
2枚の絵は前者には堂々とした凛とした美しさを感じ、後者には華やかで優雅な美しさを感じます。実際の彼女たちがどうであったのかは、詳しくわかりませんが、同じような構図でありながら描き方が違うのは印象や性格の内面を表しているからだと思います。<br />
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こうした女性をテーマにしたものがとても多いピカソですが、戦争をテーマにした絵というのもあります。<br />
今回の企画展では「朝鮮の虐殺」という絵がありましたが、やや機械的な感じのする兵隊が女子供に銃を向けているというもので、なかなかインパクトのある絵でした。<br />
有名な「ゲルニカ」も戦争をテーマにしたものですが、こうした戦争の悲惨さを描くのも画家の使命なのかもしれません。<br />
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ピカソの芸術作品が約170点も一堂に会しているというのも日本ではなかなかないので、かなり見ごたえのある企画展だったかと思います。<br />
サントリー美術館の企画展もあるので、両方を合わせて見ればかなりのピカソ通になれそうです。<br />
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PS：国立新美術館の地下のミュージアムショップ前にはヤコブセンのエッグチェアがいくつか置いてあるんですが、これの座り心地が最高なんですよね〜。<br />
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]]></content></entry><entry><title>【前編】　図書館の誕生　-古代オリエントからローマへ-</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.ha-coins.shop-pro.jp/?eid=473341" /><id>http://blog.ha-coins.shop-pro.jp/?eid=473341</id><issued>2008-10-21T11:19:55+09:00</issued><modified>2010-03-03T15:00:00Z</modified><created>2008-10-21T02:19:55Z</created><summary>今回は、古代における図書館の誕生についての本の紹介です。古代世界における図書館について書かれた本はとても珍しいので、一読の価値ありかと思います。
記事が長くなりそうなので、オリエントからギリシャまでの前編とヘレニズムからローマ、ビザンツの後編に分けて書き...</summary><author><name>ロマーヌス</name></author><dc:subject>書籍</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[今回は、古代における図書館の誕生についての本の紹介です。古代世界における図書館について書かれた本はとても珍しいので、一読の価値ありかと思います。<br />
記事が長くなりそうなので、オリエントからギリシャまでの前編とヘレニズムからローマ、ビザンツの後編に分けて書きたいと思います。<br />
<img src="images/Scan0015.jpg" width="161" height="225" alt="" class="pict" />図書館の誕生　-古代オリエントからローマへ-　L.カッソン著　新海邦治訳　刀水書房<br />
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前編では主に図書館の成立について書きたいと思います。<br />
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本書で扱っているのは紀元前3千年前の西アジアにおける図書館のはじまりから、ギリシャ、ヘレニズム、ローマ、初期ビザンツまでの範囲となっています。内容は、図書館の発展や仕組み、建物に関することから、粘土板、巻物、本といった収蔵物に関することまで触れており、図書館といういわば「知の殿堂」とも呼べる施設に関すること知る良い機会になるかと思います。<br />
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内容ですが<br />
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はじめに<br />
第一章　西アジア　粘土板の保管<br />
第二章　ギリシア　書物の収集<br />
第三章　アレクサンドレイアの図書館<br />
第四章　公開図書館の始まり　<br />
第五章　ローマ人の蔵書<br />
第六章　皇帝たちの図書館<br />
第七章　ローマ帝国の地方図書館<br />
第八章　巻子本から綴じ本へ<br />
第九章　中世へ<br />
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以上ですが、ローマ帝国の図書館についてかなりのページ数をとっていることがうれしい限りです。ローマ帝国の図書館についての話は次回のブログ記事で紹介したいと思います。<br />
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古代において図書館と呼べるものがいつできたかというのは、はっきりとはいえませんが、メソポタミア文明の担い手であったシュメール人の書き付けた楔形文字による粘土板を保管する文書庫がはじまりといえるかもしれません。<br />
古代エジプト文明も同じく文書を書いていましたが、書き付けたのが消滅しやすいパピルス紙だったこともあり、その起源をたどることはできないからです。<br />
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シュメール人を征服したアッカド人やまたその後のバビロニア人、アッシリア人は、シュメール人の残した楔形文字を受け継ぎ、彼らの言語に当てはめて使用していきました。シュメール語はその言語が使われなくなっても、彼らの粘土板を理解するために専門の書記によって受け継がれていきました。<br />
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図書館の原点ともいえる初期の文書庫は、粘土板を収めた棚をざっとみるだけで利用者が調べ物ができる程度のものでしたが、規模が大きくなるとそうもいかなくなります。<br />
この問題を解決するのに、蔵書目録の作成がなされるようになりました。<br />
紀元前13世紀のヒッタイト帝国の首都ハットゥサの王宮文書庫では、収蔵書の目録だけでなく、粘土板の番号管理がなされ、どの文書の何枚目（本でいうページ）なのかやどこに収蔵しておくかがわかるようになっていました。この段階でこの文書庫は王立図書館といえるレベルのものかと思います。<br />
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設立者までわかる図書館の最初はというと、紀元前12世紀末のアッシリア帝国の図書館で、ティグラト・ピレセル1世（在位前1115年〜前1077年）のものか、確実なところでは、アッシュルバニパル王（前668年〜前627年）のものを挙げることができます。<br />
アッシュルバニパル王の図書館は規模において、それ以前の何倍も大きく、以後3世紀半の間はこれ以上の図書館はないといわれています。蔵書は専門的な文書以外にも、ギルガメッシュ叙事詩や天地創造叙事詩なども含めれていました。<br />
しかし、メソポタミアにおける図書館はすべて王宮にあり、王を含むごく一部の人間のためのものといえます。<br />
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より開かれた図書館という意味では、ギリシャ人のそれがはじまりといえます。<br />
ギリシャ人はフェニキア人の文字を改良し、24個程度の少ない文字で、すべての語を表すことができるものとしました。これにより、読み書きする能力を持つ人が飛躍的に増えていくことになります。<br />
ギリシャにおける図書館のはじまりは、こうした読み書きできる人々の作る私的な蔵書にはじまり、やがてアリストテレスによる個人図書館にまで発展していきました。<br />
アリストテレスは収集した書物を系統だてて整理しており、この整理法はプトレマイオス朝エジプト王国のアレキサンドリア図書館に大きい影響を与えたとされています。アリストテレスの死は前322年で、プトレマイオス朝のはじまりは前305年だから、直接ではないですが、彼の弟子のパレロンがプトレマイオス1世と親交があったということだから、影響はあったのだろうと思われます。<br />
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このアレキサンドリア図書館は記録上の最初の公共図書館であり、ヘレニズム期、ローマ時代を通して最も有名かつ最大の図書館となります。その収蔵数は70万点にの登るといわれています<br />
王たちがギリシャ世界の文化的中心地となることを望んだこのアレキサンドリアには、数々の文化人が集まり、エウクレイデス、ストラトン、エラトステネス、アルキメデスなど名だたる知識人によって彩られました。<br />
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知識人たちをひきつけたのはムセイオンの存在も大きいといえます。ムーサイ（英語ではミューズ）を礼拝するための神殿を指していたこの施設は、やがて学芸を奨励する一大学府となります。著述家、詩人、科学者、古典学者たちにとっては、給金をもらいながら、食・住が無料という、いたれりつくせりの施設でもありました。<br />
もちろん彼らにとっては、アレキサンドリア図書館を自由に使用でき、学術に没頭できる環境こそが求めるものであったかと思います。<br />
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アレキサンドリアに限らず、古代世界における図書館は、大学という学術機関がまだなかった当時、学問の中心地とも呼べる場所であり、いかなる知識人もそれを利用していました。当時は今のように個人が本を買うような本屋もなく、巻物や本は筆写することでしか手に入れることができませんでした。また筆写が次々に行なわれた書物はオリジナルとは変化していってしまうこともあり、オリジナルを所蔵している図書館はとても重要であり、貴重な存在といえました。<br />
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このアレキサンドリア図書館を通して、古代における図書館の役割やそれが今日の社会にどんな影響を与えたかを知る良い手がかりとなりそうです。<br />
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後編につづく<br />
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ジアーノ門（Arco di Giano）

この門は356年頃、コンスタンティヌス大帝の偉業を記念して、その実子で皇帝を継いだコンスタンティウス2世がローマを訪れた際に建造されたものでした。場所は、真実の...</summary><author><name>ロマーヌス</name></author><dc:subject>ローマ遺跡</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[今回はローマ市内に残る古代ローマ遺跡の一つ、ジアーノ門を紹介します。<br />
<img src="images/RIMG0244.JPG" width="392" height="294" alt="" class="pict" />ジアーノ門（Arco di Giano）<br />
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この門は356年頃、コンスタンティヌス大帝の偉業を記念して、その実子で皇帝を継いだコンスタンティウス2世がローマを訪れた際に建造されたものでした。場所は、真実の口があるサンタ・マリア・イン・コスメディン教会の向かい側にあたります。<br />
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ジアーノとはヤヌス神のことで、この門は別名で「ヤヌスの四面門」とも呼ばれています。<br />
しかし、これは後世に付けられた名であり、本当の名前は「Arcus Divi Constantini」というものでした。訳すと「コンスタンティヌス門」ということになりますが、コンスタンティヌス凱旋門というものが別にあるので、これだと紛らわしくなってしまいますね。<br />
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2つ同じような名があると紛らわしいので、間違えないように便宜上、付けられた名なのかもしれません。<br />
ヤヌスは門や建物の入口の神なので、その関係から由来していそうですね。ちなみにこの場所はローマ時代は重要な十字路だったそうです。<br />
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最初の写真ではわかりづらいですが、この門は4面で、通路が十字になっているというなかなか珍しい作りになっています。<br />
門の幅は約12ｍ、高さは約16ｍあります。建物は大理石で覆われていますが、これは他の建造物から流用して使われたものでした。コンスタンティヌス凱旋門も他からの流用した装飾物などを多く使っているので、この頃の経済状況には余裕がなかったことが窺えます。<br />
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<img src="images/RIMG0248.JPG" width="392" height="294" alt="" class="pict" />ちょっと角度を変えてみると4面になっているのがわかるかと思います。<br />
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門には各面に、半円状の壁籠が12個あり、それぞれに当時は彫像が置かれていました。今はなくなっていますが、壁籠には両脇に2本の小さい柱が置かれていて、これは4世紀独特の様式となっていました。<br />
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<img src="images/RIMG0246.JPG" width="261" height="196" alt="" class="pict" />アーチ上部のアップ<br />
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アーチ部分の中央には、それぞれローマ、ユノー、ミネルヴァ、ケレスの女神像が配置されていました。今現在は像の形が判別できる状態になく、全体的に装飾物がなくなっているので、やや寂しい感じがします。<br />
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<img src="images/RIMG0249.JPG" width="326" height="245" alt="" class="pict" />アーチ内部<br />
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元々は屋根がついていましたが、1837年の復元の際に中世に付けられたものと勘違いされて壊されてしまったため、オリジナルの形とは違う状態になっています。<br />
ちなみに中世の時代はフランジパニ家がこの門を所有物としていて、門をオリジナルの形からかなり変形させていたようです。<br />
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この門の建つあたりは、ローマ建国の父ロムルスとレムスが狼に育てられているのが発見されたあたりとされており、由緒正しい土地でした。<br />
フォロ・ロマーノとも近いエリアであり、ヘラクレス神殿やフォルチューナ神殿、アルジェンターリのアーチ、オクタヴィア回廊など、ちょっとマニアなローマ好きには面白い建物が多く残っているので、おすすめです。<br />
またいずれいろいろ紹介していきたいと思います。<br />
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